Don’t be Japanese

おもしろいコメントをいただいた。

ポスドクの待遇改善のために、ポスドク一同で偉い人に意見を言いにいくという話。

そのためには、Don’t be Japaneseという話。

ポスドクというのは、有期雇用の契約研究員であり、もともとは募集条項や条件の制約にある程度納得したうえで、仕事を引き受けたとおもわれる。

すくなくとも日本人は、そう考える。私はそう考えてる。

あるもので満足しよう、あるもので仕方ないと考えよう、あるものの中でベストを尽くそうという考え方は、私の中でも、大きな中核をしめる考え方で、日本人のおおくに共通する考え方ではないかとおもう。

つまり、あるものは変わらないことを前提とする。

これは、いわゆる伝統的な日本人の労働観、美徳といわれたりする。

与えられた待遇が自分の価値だとおもう。不満があっても、それを口にだすことは贅沢だと考える。

たとえば、給料が安くてもそんなことは口にしない。労働じしんに喜びを見いだす。

労働大好きだもん、という考え方を採用する。給料に見合っていなくても、猛烈に働く。

いや、そもそも見合っているとか考える事が不純である、といった考え方。

こういったものが、日本人の労働観、美徳と考えられている。

これは、あるものが限られている場合、パイが一定な場合、おおくを望むことは、

他の人のものを奪う事になり、自分の権利を主張することが道徳的ではないことになってしまう。つまり、椅子とりゲームやゼロサムゲームの場合の道徳。

ところが、実は、他のゲームも存在する。

それは、パイ自身を大きくしようという試み。

この場合は、問題解決が望めなくても、問題意識を共有しておくことに意義がある。

ある人が問題提起しておくと、他の人が、あるときにその問題を解決する可能性がでてくる。そして、全体のパイを大きくする可能性を主体的に作る。

こういう意識では、不遇を訴えることは、愚痴をいうことでも、文句を一方的にいうことでもなく、欲張りで自分勝手な要求ということにもならない。

そんなことを言ったら、欲張りだと思われると閉じこもることのほうが、非道徳になる。

日本人の美徳、伝統的とされる労働観(待遇に関係なく労働に全力をそそぐ)、これにつて、たしか司馬遼太郎だったけれど、考察がある。その人の考えでは、これは決して古い考えではなく、江戸時代に醸成されたものだろう、という考察。

戦国時代までは、成果(戦果)をあげた人には、あらたに手に入れた領土によって、報酬を十分に支払うことができた。このような場合は、侍は報酬を目当てに働く。

そして、それが侍の大きな労働動機、となる。

これが江戸時代になると、新たな領土というものがなくなって、有能な侍にも十分な報酬が払えなくなる。だから、制度側としては、名前の良い地位を与えたり、そもそも、幕府に仕えることを幸福に思えという価値観を与えることにした。制度側が能動的にしたのか、侍側は採用したのかわからないけれど、とにかく、領土が拡大しない、トップは交代しないという前提でできた特殊なものである。

たしか、そんな内容であった。

同じ時代に(現代でも?)、領土の拡大を前提とした国があるなかで、これは特殊、ということになる。

話をポスドクに戻すと、やはりポスドクは自分の待遇をまじめに考えないといけない。

しかし、その方向は、パイ全体を大きくする可能性に賭けるものであり、問題があるということを明示化しておく、という方向へ持っていくことが道徳的。

自分自身の待遇を考え直すことは、もちろん、ポスドクだけではなく、すべての人が行うことがさらに全体のパイを大きくするのではないか。ただ、やはり量だけではなく質を高めるということも全体のパイを大きくするうちに入る、という答えになり、”伝統的”な日本人労働観に戻るかもしれない。

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