なんで?という質問に関する考察

私は、「なんで?」という質問をよく受ける。

私だけではないかもしれないけれど、この「なんで?」、「なぜ」って質問は、おおくの場合、不快であり、その質問が来るかなあ、と考えるだけで私を憂鬱にさせる。

不快な「なんで?」質問の主語は私であり、

「何で物理を勉強したの?」とか、「なんで台湾で働いてたの?」とか、「なんで、いつも赤を着ているの?」とかこういう種類の質問。

重要そうな質問もあるし、明らかにどうでもいいよねってものもある。答えない理由もないけれど、なんだかめんどくさい、という質問。

主語が私でなければ、たとえば、「なぜ空は青いの?」とかは不快にならない。

また、主語が私でも、それが、入国審査や就職試験ならば、不快だとか言っていられない。また、十分に親しく立場が同等な友人から、たまにそういう質問をされることも、お互いさまだとおもう。

どうして、不快なのかを考えていたら、私の言いたいことの半分を言っている記事をみつけてうれしかった。記事によると、なんで?質問は、多数派同調圧力を与えるものだから不快ということ。

http://blogos.com/article/28350/

書いている人は女性。

女性は、こういう質問を受けやすいのか?

私がおもいつくかぎり、「なんで?」という質問で、不快感がある内容をぶつけてくるのは、男性だった。男性の性質なのかな?これに比較すれば、女性はゴシップのような「どうなっているか?」に興味があるのかもしれない。

人(これは男性だった)によっては、個人的な決定事項に関する「なんで」という質問が好ましくないと、強く意識していて、人が答えようとしても、「いや、そんなことは説明しなくていいんだよ(Never excuse)」と言ってくれる人もいる(スケジュールが悪い、と返事した理由を説明しようとしただけで、悪いことしたわけじゃあないわよ)。

 

「なんで?」質問が不快なのは、それがたいしたことであっても、なくても、個人的な事だから、説明責任がないのに、説明責任があるかのような前提で話かけられることだろうか?

たとえばこういう質問は、ありだろうか?

「なんで、あなたは○○教なの?」

これは、背景に理由があるにせよ、ないにせよ、聞いてもいいでしょ、という内容ではなく、失礼を絵に描いたような質問だと思う。

不快な質問というのは、こういう個人的な決定事項に関する事なのだ。

さて、不快な質問を受けたらどうしたらいいか?

案1:適当な答えをつくって回答(よくやる)

→結果、表面は友好的だけれど、こっちに不快感と恨みがのこる。

案2:むすっとする(これもよくやる)

→結果、すこし険悪となる。

案3:「そんな話はしたくない」という(たまにやる)

→結果、険悪となるけれど、こっちはすっきりする。

 

これ以外にもっといい案がないかなあ、と考えに考えているけれど、

これ位しか思いつかない。

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なんで?という質問に関する考察 への1件のフィードバック

  1. nazonazo より:

    「多数派同調圧力」を話題にしている、miho さんやもうひとりの方が日本人であることが、ひとつのキーポイントかもしれないと思いました。日本人にはえてして、他の人と同じでいたい、あるいは同じでならなければならないと思う傾向が強いように思います。例えば服装の流行に、そういう傾向がはっきり見られます。

    もうどこで読んだか忘れてしまったけれど、日本の悩み相談では他人と違うことの悩みが多いけれど、フランスだかイタリアだかでは他人と同じことの悩みが多いという話をどこかで読みました。日本人は「多数派同調圧力」を感じやすい民族なのかもしれません。

    やや古い本ですが、「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン著、1970年出版)をめくったら、面白いくだりがありました。

    かつては、全日本人の85パーセントが、ある時期になると一斉に同一行動を起こした。田植えの時には全日本人が田植えをしなければならない。ゴーイング・マイ・ウェイなどとうそぶいていれば、確実に餓死するか他人様のごやっかいにならねばならぬ。
    私の親しいある日本人農民は言った「私は篤農でも精農でもなく、単なる隣り百姓です」と。もちろんこれは彼の謙遜であるが、面白いのはこの「隣り百姓」という言葉である。隣が田植えをはじめれば自分も田植えをする、隣りが肥料をやれば自分もやう、隣りが取り入れれば自分も取り入れるのである。
    (中略)
    東南アジアやアラブの諸国では、いくら義務教育令を出しても空文になってしまう。遊牧民は本質的に文字通りマイ・ウェイであるから、隣りがどこへ行こうが関係ない。ましてや、隣りが大学へ行くなら、自分の方も、三度の飯を二度に減らしても子供を大学にやることなどは絶対にない。
    私は昔、野口英世の母の物語を読んだ。彼女は学校に行けなかったので、教場の外で盗み聞きして、砂の上に文字を書いて学んだという。これは本当に向学心ないしは学問的興味であろうか、そうなら終世勉学を続けたはずである。おそらく、皆が行けるのに自分が行けないのは不合理だと感じたのであろう。今でも同じことを口にする日本人は多い。「みんな高校に行っているのに、あの子だけ行けないのは、かわいそうですから」。まさに、キャンペーン型稲作の行き方である。こういう社会では、マイ・ウェイ型人間のたどる運命は、社会から排除されるか、社会がこれを矯正してしまうかのいずれかであろう。

    僕が不快な質問を受けたらどうするか。相手が日本人であれば「そんなこと、別にいいじゃーん」と言って、微笑んで切り返す(つまり案3)かな。
    外国人から尋ねられたら「それは日本では失礼な質問です」というのも手かも。それが本当に日本で失礼かどうかは別として。

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