魔法の物質2つがあったなら

研究計画を書いていると、いつまでたっても(締め切りまでだけれど)

これが頭に乗っかってくる。

研究計画自体は、しょっちゅう考えている、

それこそ、一日の始まりは、ちょっとした研究計画で始まり、「こうしたら、こうなるのかしら」と作業して、「あれ?なんか違ってたかなあ」でその日が終わる。

または、誰かの論文を読んだり、発表を聞いたりしたとき、「こうこう、こうすれば、新しい観点の研究になるなあ」とか考え研究ノートにメモだけしておいたりは、よくしている。

だけれど、提出する研究計画という書類は、他人が審査する書類なので、

他人にわかりやすく、かつ魅力的に書かねばならないため、研究のためだけではないプレッシャーがある。

研究を魅力的かのようにするために、

研究内容は、楽観的なものをかく、

文脈は、「これこれの有効活用」、「新しい手法の開発」とか、

一方、悲観的な文脈は、「これこれの非有効性」みたいな用語かしら、

実際の研究では、かなり悲観的な作業(注意深い作業ともいう?)をするのだけれど。

このアイディアはうまくいかないかもしれないではなく、うまくいくかもしれない、と書いておく。本当に信じているかどうかは別。

これで思うのは、なぜ原子力技術とその運用は、「絶対安全」みたいな楽観論になってしまったのだろうか、ということだ。

科学者や技術者が何か文書(人に評価される文書)をかくとき、こういう楽観論で書いてしまい、それがどんどん大きくなってしまったのだろうか?

楽観論はとても大事な要素である。

もっとも有名な科学雑誌Natureの論文採択ポリシーにも、

「永久機関が不可能であるという証明より、まちがっているかもしれなくても、永久機関が可能なアイディアを採択する」

というものがあり、なるほどと思った。

原子力も、人間が安全に運用できる解があるという楽観論で進めることは

悪いこととは思えない。

なんでもかんでも、偉そうな悲観論では、何も生み出されないからだ。

でも、こういう悲観論はたいそう科学的(これまでの科学的見解には基づいている)で論理的で、とても偉そうなのだ。

楽観論は絶対に必要なのだけれど、それでも悲観論も真剣に検討しないと安全は確保されなかった、無視してはいけない教訓になってしまった。

今後、原子力技術は、ヒューマンエラーを含めて、絶対安全な運用方法を開拓できるのだろうか?

一方で、物理的に不可能な壁が存在するのではないだろうか?

私は、魔法の特性をもつ2つの物質があれば、絶対安全な原子力技術、が可能ではないかな、と思う。

魔法な物質一つ目は、軽量(人の衣料にできるぐらい?)で放射線を防ぐ物質。

魔法な物質2つ目は、超高温(たとえば太陽表面の温度くらいで6000度)でも溶解しない物質。

こんな魔法の物質があれば、シンプルな方法で危険な放射性物質を処理したり閉じ込めることができるのになあ、、、きっと

原子力技術の科学者は、この2つの特性をもつ物質が存在しないことを軽視しているのではないだろうか?

「策士、策に溺れる」という言葉がある。

途方もなく複雑なシステムを作ることで安全性を確保する、という方針は専門家にしか分からず、専門家自身もだまされてしまうのではないかしら?

途方もなく複雑なシステムや理論モデルというものは、多くの専門家の努力が結集していて、だから大丈夫、なんていう非論理的な結論をごり押しされることもある。

 

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